この先生もいかにも日本の眼科学を背負っているという感じの、かっぷくの良いおじいさんです。
「日本近代眼科学の父」と言われる程の本当に偉い先生なのです。
河本先生は1859年(安政6年)城崎郡豊岡(現・兵庫県豊岡市)出身。藩校稽古堂で池田草庵に学び。13歳の時、和田垣謙三らと共に郷土の先輩の吉村寅太郎に連れられ上京。
横浜在住の叔父・中江種造方から横浜にある高島学校でドイツ学科へ通う。
東京大学医学部入学。
首席で卒業。この際同期の友人が今話題の次期1000円札北里柴三郎であった。
卒業後は同学部外科学教室の助手を務める。
明治18年(1885年)にドイツ・ベルリン大学には眼科医として4年留学。
明治22年(1889年)東京大学医学部眼科学教室主任教授に帰国直後30歳で着任。
明治24年(1891年)、医学博士の学位を初めて眼科で受けた。
33年間その職にあって、日本の眼科を先進国の水準に近づけ、さらに発展させた。
大正11年(1922年)退官。昭和13年80歳で永眠
このようなすごい経歴の先生ですが、意外と知られてないことで、日本で最初に日本製ガーゼを発明した先生でもあります。
当時日本は全て輸入物の医療用ガーゼを使っていたのですが、明治17年に東京の医療機器屋篠崎氏に医療用ガーゼの作り方「つまりガーゼは横糸に隙間を作ることで吸引力がよくなる」と教授し、本人はすぐに、ドイツに留学し、4年後ドイツから帰国したら、それまでの輸入物のガーゼが、全て日本製ガーゼになっていた。と1929年の「眼科領域における新知識」という彼の論文の中に書かれています。日本における「ガーゼ」の発明者と言えます。
話を目に戻しますが1893年明治28年3月河本先生は
河本眼科学(上、中、下巻)という有名な教科書を書いており、その中で「さかさまつげ」を治す手術、専門的に言うと「上眼瞼睫毛内反症」の術式を報告しております。
この河本先生の手術を美甘先生が何度も見て、又本人も多くの症例を行い、この術式の原理を応用して、美容のための二重の手術法を考え付いたのです。
此の河本式手術法は、いわゆる切開式で簡単に説明すると、上瞼の二重をつくりたい位置に皮膚切開を行いその下にある瞼板に3か所窪みを作りその窪みに糸を通して二重を作ることで、下を向いている睫毛を強力に上に向ける方法です。これが上眼瞼睫毛内反症を治す手術法です。いわゆる機能改善が目的の手術で、「おまけに副産物として綺麗な二重が出来た」。と言うことです。
美甘先生の方法は切開式ではありませんので河本式より緩やかな美容目的の手術と言えます。原理は全く同じです。
実際河本先生も文献中にも「瞼縁の上に横溝を生じ眼相すこぶる美なり」と書いてあります。
美甘先生が1896年に、世界で最初の美容を目的とした二重瞼手術を報告していますが、河本先生はこの方法を1893年以前から切開式の二重瞼手術をしていたことになります。ただし美容目的ではありませんでしたが。
実は河本先生の文献中でも「私は00先生の手術を参考にこの術式を考案しました」という文章を見つけ出しました。
この話さらに続き米国シカゴまでまいります。
お楽しみに
サフォクリニック副院長/美容外科美容皮膚科医
白壁 聖亜
当クリニックの診療は自由診療(保険適応外)となります。