「二重の手術の起源は米国シカゴにあった」と言う話
二重の西洋人A、一重のアジア人B、と誰でも思っています。
その通りです
それなのになぜ二重のアメリカ人が二重の手術を始めたのか。
これを紐解くと1882年の米国シカゴにまで話はさかのぼりますので3部構成にいたします。
まず第1部として
日本の二重の手術の歴史から始めましょう。
この髭の長いおじいさん美甘光太郎先生(安政6年1月―昭和11年3月26日)です
彼は安政6年1月岡山県津山の藩士美甘正和の長男として生まれ
明治13年岡山医学校に入学するも。2年後に学制が改正されたので退学。上京して済生学舎および順天堂大学で学び、明治18年試験及第,医籍#269.丸尾興堂の招きに応じ静岡復明館に勤務し、ついで明治22年上京して中外医事新報社に入り、編集をつかさどる。
沼津復明館の眼科医として「眼科学」を明治28年に出版する傍ら、明治31年に「万国歴史年鑑」を出版している(全く眼科とは関係のない仕事)
明治29(1896)年刊行の『中外医事新報』第396号に美甘先生が投稿した,「眼瞼成形小技」
と題された二重手術の術式は世界で初めて報告でした。
驚いたことに、この文献にはご覧の様に今と同じく、術前、術後写真が出てました
1896年にですよ❗️❗️
そして美甘光太郎先生はこの中で二重が出来るだけではなく、瞳が大きくなり、視野が広くなった、とモニターから絶賛されたと書き加えています。
その原文を文献から書き出しますと
「 この手術一小枝(一重瞼)たりとも外表部に瘢痕を残さず、少しでも経験を積めば、その大小高低深浅形状等皆思いの通りとなる。その作用を回復して生理的なものをあざむくことを皆試みて、人生の華たる美人をして増々艶色を深からしめ、妙齢の夫人がその容姿を重んずる事は、我我の想像外にて。彼の喚起も又想像外にして破顔一笑温順なる笑いを新しき二重に付加へて歓喜の波はきょうえんに溢れる、此のときこそ偽り多き婦女の変身よりい出し真の謝辞を得る」
なんか意味は半分、分からなくても美甘先生の興奮状態が文字だけをみてもわかります。
皆さんはこの文献が出た後はきっとたくさんの二重希望患者が手術希望で浜松の美甘先生に詰めかけたのではないかと思うでしょう?何しろ世界で初めての二重手術ですから
ところが、、、、そうではありませんでした。
何故か
これはあくまで私の考えですが、この美甘光太郎先生の医院が浜松にあり、写真のモニターも静岡県浜名郡坪井村○○はつ18歳、静岡県浜名郡寺脇村○○なつ16歳と、ご自分の医院に近いところに住んでいるはつチャン、なつチャンでしたので
しかも当時はラジオもテレビも女性週刊誌も無い時代ですから、美甘先生の記事は大きな反響を呼ぶこともなく静岡県浜名郡の皆さんだけの限定BigNewsで終わってしまったと思われます。
その後この種の二重の手術が学会報告されたのは美甘先生の発表からなんと30年後の1926年に東京の内田孝蔵先生が発表した
埋没式重瞼術だったというから、美甘先生の二重の発表は本来かなりのセンセーショナルなものだった筈でした。
この30年間何故学会で二重手術の報告が無かったのでしょうか
美甘先生少し早すぎました
今ならどこかの院長先生の様にテレビで「二重瞼手術00円、保険適応なし」といえば浜松に全国から集まったでしょうに二重の話はこれでお終いではありません、もっと興味深い話が1882年米国シカゴまで2部に分けて続きます。お楽しみに
サフォクリニック副院長/美容外科美容皮膚科医
白壁 聖亜
当クリニックの診療は自由診療(保険適応外)となります。