ここで過去の日本人の美人の条件について面白い結果を得ました。
平安時代の美人は顔ではなく彼女の教養が重視されました。
顔としての条件は肌が白いこと,きれいな長い黒い髪でした。
それよりも恋文の文章的内容で女性の教養が重視されたわけです。
紫式部の源氏物語の時代の話です。
それから明治の初め、いわゆる明治維新の話です。
急激な西洋化が進み鹿鳴館の時代に入り写真技術が導入されると今までの浮世絵師が描いた作られた美人画ではなく、実際に身近にいる女性が美人の対象になってきました。
しかし昔から日本の素人女性は自ら容姿や顔を出したり、競い合うことは、はしたない行為であると言うことで、素人よりも芸妓さんの写真を使って写真を撮りました。
中でも、明治23年に浅草に建築された総煉瓦作り8階建の凌雲閣が建築後に、取り付けていたエレベータが警視庁の検査で危険とされ撤去されたため、経営者は目玉商品を失い大打撃を受け、思案した結果、東京の花柳界から美しい芸妓100人を選び写真家小川一真に100名の芸妓の撮影を、同じバックで平等な条件で行い。
この写真を額にいれ、4階から8階までに展示し、来場客に人気投票してもらいました。
こうしてエレベーターが無くても客は上階迄上がってくれるとの苦肉の策でした。
浅草 8階建て凌雲閣
1等 新橋あずま17歳
2等 新橋小と代
バックが同じ条件
おそらくこれが日本における最初の美人コンクールと言えます。
当時の芸妓は美貌もさることながら知性と教養を兼ね備えた存在であったので、これ以降、知名度はどんどん高まり写真絵葉書は全国的に広まりました。
現在のプロマイドの様なものです。
平安美人は教養が一番でしたが、明治の芸妓は美貌だけでなく教養も重視されました。
そのため後に明治維新で活躍した多くの政治家、経営者の夫人となり海外在住の後、帰国して鹿鳴館の華となった方が沢山います。
伊藤博文総理ご一家中央の女性が奥様
陸奥 宗光夫妻と長男 奥様は「鹿鳴館の華」といわれた
明治のもう一つの写真美人コンテストは深窓令嬢美人コンテストです。
明治30年代になると女性雑誌に上記の様な皇族写真から良家の令嬢,令夫人、家族風景などが取り上げられる様になりました。
アメリカの新聞社ヘラルド・トリビューン紙の依頼で時事新報社が日本国内の19の新聞社の協力にて日本各地から令嬢対象の美人写真を募集しました。
この規定として女優、芸妓その他容色を職業とするものは除かれました。
審査委員は当時の有名な日本画家、写真学者、歌舞伎俳優、医師、人類学者などが行ったそうです。
結果は前回のブログで書いた小倉市長令嬢の末広ヒロ子さんでした。
いつも1等の末広さんですので、今回は2等の金田ケン子さん<宮城県仙台市)を出しました。ポーラ文化研究所の幕末明治美人帖には北海道から鹿児島までの美人の顔写真175名出ています。ご興味のある方はぜひご覧ください。2等 金田ケン子<宮城県仙台市)19歳
私は仕事がら1等から12等までの美人が一重か二重を拡大鏡で見て9名が二重、3名が一重であったことに驚きました
175名全員では一重が96名二重が79名でした。
ここでも二重が多いのにもビックリしました。
サフォクリニック副院長/美容外科美容皮膚科医
白壁 聖亜
当クリニックの診療は自由診療(保険適応外)となります。