縄文時代からはじまり平安、鎌倉、江戸、明治、大正と美人の歴史を追っているのですが
たまたま司馬遼太郎の文藝春秋から出版されている「義経」を読んでいると鎌倉時代の美人の話がでてきました。
とても面白い話です。
中の文章を引用すると、長者(奥州:京都から離れた東北地方の金持ち)が都の血を欲することは
渇いたものが水を恋うよりも激しい、長者のほしいものは若者(義経)の扁平な顔であった。
顔は扁平、鼻は低く、色白で、髭が薄い、瞼は一重、これが若者(義経)のような畿内人の特徴であった。
が奥州人は、京のことばでいうケビト(毛人)であった。毛が濃く、顔の彫は深く、鼻は低からず、瞼は鮮やかな二重にくびれている。この祖型は白皙(はくせき)人種の一種とされているアイヌであろう。
奥州人はみずからの祖型を恥じ、遠い都の扁平の顔を貴重としてそれを恋うた。
偏平の顔が奥州でふえるごとに奥州人は喜び,奥州も「熟した」とした。
娘(奥州人)は目が胡桃(くるみ)のように大きく、濃い睫毛でふちどられ、その睫毛が風を呼ぶように動く。
時代が変わればこの娘の貌(かお)はよほどの美人とされたのであろうが、若者(義経18歳の時代)の時代の今日、貴族の子は目の眠れるほどに細く、唇のか細い、いわば韓(から)の王室王女といった貌がよしとされていたから、
娘のような顔は下品でしかない(美しい娘ではない)と若者は思った。 司馬遼太郎「義経」文芸春秋社より引用
当時(1185年頃)の美人の評価は男性から見たものですが、義経が奥州(現在の東北地方)大泉で藤原家の世話になっていたころの話です。
当時の奥州の人は遠い京都の都の顔を美女,美男として憧れていたようです、少しでも都の血が入っている義経の血液を持った子供がほしくて奥州の貴族の女性を義経に紹介したそうです。
実際に当時の京都の美人顔を探すと絵画として源氏物語の「浮船」に代表されるような顔だと思われます。
しかし下品と言われた彫の深い顔の絵は存在してません。
源氏物語 浮舟
そこで本当は長州顔、薩摩顔ですので奥州、都の顔ではないのですが、イメージとして皆様に理解してもらうために
長州型(奥州の美人)
薩摩型(京都の美人)
江戸末期の二人の娘の写真で、このような違いであったろう私の判断ででお見せします。
どちらが美人だと思いますか?
奥州人850年後に生まれれば超美人でしたのに
サフォクリニック副院長/美容外科美容皮膚科医
白壁 聖亜
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